塩田 邦郎(しおた・くにお)
東京大学名誉教授
1950年鹿児島県生まれ。博士(農学)。79年東京大学大学院農学系研究科獣医学専攻博士課程修了後、武田薬品工業中央研究所、87年より東京大学農学生命科学研究科獣医学専攻生理学および同応用動物科学専攻細胞生化学助教授、98年より同細胞生化学教授。
2016年早稲田大学理工学研究院総合研究所上級研究員。哺乳類の基礎研究に長く携わり、専門分野のエピジェネティクスを中心に、生命科学の基礎研究と産業応用に向けた実学研究に力を注ぐ。2018年より本サイトにて、大学や企業での経験を交え、ジェネティクスとエピジェネティクスに関連した話題のコラムを綴っている。
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第七十四回 マトリクス怪談
さて、どうしたものか。遠くから聞こえていたセミの鳴き声が途絶え、額から汗が流れる。北側の窓の壁には天井の中ほどまでカビが生えている。かつて海辺の街で見た土産物屋の天井に張り巡らされていた魚網を思い出す。それに似て、壁紙の模様がわからなくなるほど細かな網目模様でカビがへばりついている。これまで何度も塩素系の防カビ剤で除去してきたが、しばらく経つとまたすぐにカビに覆われる。部屋の真ん中で天井を見上げ、対策に頭を悩ませている。
このカビの生えた壁面は、まるで「核マトリクス」のようだ。核マトリクスは、繊維状の網目構造である「核ラミナ」に裏打ちされている。核ラミナは、中間径フィラメントの繊維状タンパク質ラミン分子から構成されている。2本のラミンが結びつき二量体のコイルを形成し、さらに他の二量体と結合して四量体となり、強靭なフィラメントの網目状の核ラミナが形成される。そして、ラミンはクロマチン(DNAがヒストンに巻きつき、さらに螺旋状に巻かれた構造体:染色質)の特定の領域(ラミン結合ドメイン:LADs)と、核の内膜のラミン結合タンパク質(ラミンB受容体など)に結合する。こうして核マトリクスは核膜を物理的に支えつつ、クロマチンの核内での配置を調整する役割も果たしている。