第九十八回 クジラの祖先が眺めた海

東大名誉教授・塩田邦郎先生コラム「エピジェネティクスの交差点」
塩田 邦郎 先生のご紹介

塩田 邦郎(しおた・くにお)
東京大学名誉教授
1950年鹿児島県生まれ。博士(農学)。79年東京大学大学院農学系研究科獣医学専攻博士課程修了後、武田薬品工業中央研究所、87年より東京大学農学生命科学研究科獣医学専攻生理学および同応用動物科学専攻細胞生化学助教授、98年より同細胞生化学教授。
2016年早稲田大学理工学研究院総合研究所上級研究員。哺乳類の基礎研究に長く携わり、専門分野のエピジェネティクスを中心に、生命科学の基礎研究と産業応用に向けた実学研究に力を注ぐ。2018年より本サイトにて、大学や企業での経験を交え、ジェネティクスとエピジェネティクスに関連した話題のコラムを綴っている。

第九十八回 クジラの祖先が眺めた海

子供の頃の夏休みの楽しみは海水浴だった。プールのある学校はまだ珍しかったとはいえ、市営プールもあったから、泳ぐだけならそれでも良いはずだった。しかし、入道雲が湧いた青空のもと、焼けた砂浜を裸足で波打ち際に向かって走り海水に足をつけた瞬間の快感、日焼けと塩の結晶で皮膚がひりつく感じなど、海ならではの魅力があった。

東京国立近代美術館で開催されている杉本博司氏による銀塩写真展「絶滅写真」に出かけた。「ジオラマ」「海景」「劇場」の3部からなり、写真の前に集まる観客の陰影と共にフロアーが1つの世界を作っている。デジカメ隆盛の時代であるが、銀塩写真そのものは19世紀から続く写真技法で高い解像度と豊かな諧調を持つ。杉本氏は1970年代からこの技法での製作を続けている。

「古代人が見ていた風景を現代人も見ることが可能か」と問いかける「海景」は、海と空だけを被写体にした作品だ。そこには飛行機や船など人工物も、岩礁や砂浜、それに松林すら存在しない。相模湾(江乃浦2025年)、イタリア北西部リグリア海(サビオレ1993年)、カリブ海(ジャマイカ1980年)など、写真によって中心部がわずかに明るい光のグラデーション、海と空が融合し水平線が曖昧な日の出前、風に起こされた波の動きなど、季節と時間、それに天候を映し出すモノクロ写真だ。

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