第二十五回 幸福と快楽のエピジェネティクス

塩田先生コラム 第九回
塩田 邦郎 先生のご紹介

東京大学名誉教授

1979年より製薬会社中央研究所、1987年より現在まで東京大学(農学生命科学研究科)、2016年から2020年まで早稲田大学にて研究されてきた。素朴な生物学の影を残した時代から、全生物のゲノム情報を含む生命科学の基礎と産業応用の飛躍の時代になった。本コラムでは大学や企業での経験も交えながら、専門分野のエピジェネティクスを含めた自由な展開をお願いしました。


第二十五回 幸福と快楽のエピジェネティクス

 

 「これっきりですよ、一回だけですよ、いいですね!」と若い医師がモルヒネのアンプルと注射器を手に、私の顔を覗き込み念をおした。私は救急車で病院に運びこまれ、背中の奥の痛さに耐えかね冷や汗でぐっしょりと濡れて、診察ベッドで丸まっていたのだ。

 注射後には“幸福感”の絶頂の中にいた。寒い戸外で過ごして冷たくなった手足を温かい湯に浸した時の、末端の血管がペキペキと音をたてながらじんわりと広がるあの感じが全身に行き渡る。背中の痛さは変わらないままなのだが、苦痛ではない気持ちの良い痛さ。約30年前の冬の出来事だ。

 脳は外部からの情報を統合し、瞬時に判断して全身に指令を出す。その基本は様々な神経伝達物質だ。神経伝達物質(ドーパミン、セロトニン、アセチルコリン、ノルエピネフリンなど数十)の中で、“快楽”は主に神経伝達物質“ドーパミン”による。

 神経細胞は核や細胞質を含む細胞体と長い軸索および樹状突起とから成り、ニューロンとも呼ばれる。軸索の末端と樹状突起には、シナプスとよばれる僅かな間隙(30〜50ナノメーター)を持った接続部がある。ニューロンの軸索からシナプス内に放出された神経伝達物質は、次のニューロンの樹状突起の受容体で受け取られる。このシナプスを介した情報伝達は、僅か数ミリ秒という瞬時の出来事だ。

 放出された神経伝達物質はシナプス内からは速やかに除去される。神経伝達物質の刺激が続くと受け手側のニューロンが鈍くなってしまうためである。ドーパミンも再吸収によりシナプスから速やかに除去されリフレッシュされるため、生理的な範囲で収まっている場合には刺激は一過性である。ドーパミンによる“快楽”刺激は少量・短時間で十分なのだ。

 一方、薬物では事情が異なる。作用が持続する薬物の場合、リフレッシュがうまくいかず刺激が鈍く感じられるようになってしまう。前と同じ程度の快楽を得ようとすれば、より強い刺激が要求される結果になる。薬物依存症への道筋だ。

 ヒトの脳には 1011個以上のニューロンが存在し、それぞれのニューロンは数千から数万に及ぶシナプスを有している。ニューロンとシナプスの組み合わせは、天文学的な数字となる。脳全体では膨大な神経ネットワークが形成され、個体生命の維持や次世代への生命の継承のための活動が制御されている。

 中脳の腹側被蓋野とそこから伸びた軸索とつながりドーパミンを放出する側坐核が、報酬系を担う神経ネットワークの中心となる。神経ネットワークは、あたかも交通ネットワークのようだ。人が集まる大都市では地上と地下の各路線が入り込み、交通ネットワークは強化される。一方、利用客の少ない地域では、廃止路線が話題になる。神経ネットワークも刺激が繰り返され強化される。

 一度覚えた薬物の記憶は長い間、場合によっては生涯に渡って続く。エピジェネティクス(*脚注)は細胞の置かれた環境とその履歴(ヒステリーシス)の情報を担う(第1回第2回第15回コラム)。ニューロンがニューロンとして存在し続けるには、そして、ネットワークを支えるには、特有の遺伝子(群)の発現を支える、エピゲノム(ゲノム全域のエピジェネティクス情報)が備わっている必要がある。では、薬物依存症にエピジェネティクスがどのように絡むだろうか?

 最近、ニューヨークのIan Maze博士(Icahn School of Medicine at Mount Sinai)らは、ヒストンのドーパミン化という、新たなエピジェネティクス修飾(**脚注)を発見した(A. E. Lepack et al., Science 368, 197-201, 2020)。ヒストンH3の5番目に位置するグルタミン残基にドーパミンが化学的に結合するというのだ。そして、このヒストンのドーパミン修飾(H3Q5dopと略)が腹側被蓋野で増加していることが、コカイン中毒モデルのラットを用いた実験で示された。さらに興味深いことに、この中毒モデルラットでこのヒストンのドーパミン化を減少させると、コカイン探索の異常行動が減ることもわかった。コカイン依存症で見られる報酬ネットワークが絡む長期間の異常が、ヒストンのドーパミン化の蓄積による可能性が示されたのだ。

 Ian Maze博士らは、ヒストンH3の5番目のアミノ酸グルタミン(他にも上記のドーパミン修飾と同じ部位)残基がセロトニン修飾(H3Q5ser)されることも報告している(L. A. Farrellyら, Nature 567, 535-539, 2019)。

 生命情報の伝達の中で最も安定した情報の媒体はゲノムDNAで多くの場合は生涯にわたり変わらない。次に安定的な媒体はエピジェネティクス(DNAメチル化やヒストン修飾など)による情報だ。エピジェネティクス情報は、数時間で元に戻る修飾もあるが、細胞の種類を決定する場合などは数年から数十年あるいはそれ以上の有効期限が見込める。このように神経伝達物質として知られるドーパミンとセロトニンが、神経系でのエピジェネティクスの中心役者に躍り出たのだ。

 ちなみに、糖タンパク質のホルモンは数時間〜数日間、ペプチドホルモンは数分間の賞味期限だ。そして、神経伝達物質によるシナプス伝達物質は上記のようにミリ秒単位と最も短い。ドーパミンやセロトニンによるエピジェネティクス作用がどの程度安定なのか明らかではないが、神経伝達物質としての作用とは比較にならないほど長期作用であることは間違いない。様々な神経ネットワークの形成や維持、さらに、心的外傷後ストレス障害(PTSD)、パーキンソン病など中枢神経疾患を理解する上で、新たなパラダイムとなる。

 モルヒネの“幸福感”やドーパミンによる“快楽”。ランニング、テニス、水泳、山登り、様々なトレーニングの後に訪れる、(オピオイド受容体を介した)“幸福感”にもエピジェネティクスが潜むだろう。冷たいシャワーから熱めの湯に切り替えた瞬間に感じる末端血管のペキペキ感、ドーパミンなど神経伝達物質の刹那的作用とヒストン修飾による道徳的作用について思いを馳せながら、一度きりのモルヒネの記憶を辿っている。

 

 

脚注

(*)個体を構成する細胞(ニューロン、筋細胞、皮膚細胞、腸細胞など)のゲノムに刻まれた遺伝子情報(DNAの塩基配列)は全て同一だ。細胞の違いは発現する遺伝子(群)による。それぞれの専門化した細胞が特徴を保てるのは、周辺から同じ指令を受け続けるからではなく、胚発生の過程でその細胞の祖先が受け取ったシグナルの記録を(エピジェネティクス修飾という方法により)保持しているためである。発生・分化の過程で特有のヌクレオソーム構造が出来上がり、きっちりと固く巻かれたDNA領域では遺伝子発現が出来なくなり、逆に、緩いと発現が可能となる。エピジェネティクス情報は細胞分裂後も維持されうるので、細胞特有の遺伝子発現を支えるメカニズムとなる。ヌクレオソーム構造はDNAの安定性や修復、複製やスプライシングなどにも影響を与える。

(**)4種類のヒストン(H3, H4, H2A, H2B)という塩基性タンパクがセットからなるヒストン8量体に、DNAが巻き付いたヌクレオソームと呼ばれる構造になっている。これにより、約2メートルものDNAが10マイクロメートルの核に収まることが可能になる。各ヒストン(H3, H4, H2A, H2B)は約120〜130個程度のアミノ酸残基からなり、これまでにメチル化、アセチル化、ドーパミン化など、数十の修飾が発見されている。これらのヒストン修飾によりDNAの巻きつき方は変わり、ヌクレオソームの構造が決まる。ここで取り上げたヒストンのドーパミン化は、ヒストンH3の5番目に位置するアミノ酸(グルタミン、Q)残基にドーパミン(dop)が化学的に結合するためH3Q5dopと略される。

 

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