第五十四回 穏やかな午後の電車内

東大名誉教授・塩田邦郎先生コラム「エピジェネティクスの交差点」
塩田 邦郎 先生のご紹介

東京大学名誉教授

1979年より製薬会社中央研究所、1987年より現在まで東京大学(農学生命科学研究科)、2016年から2020年まで早稲田大学にて研究されてきた。素朴な生物学の影を残した時代から、全生物のゲノム情報を含む生命科学の基礎と産業応用の飛躍の時代になった。本コラムでは大学や企業での経験も交えながら、専門分野のエピジェネティクスを含めた自由な展開をお願いしました。


第五十四回 穏やかな午後の電車内

 今年も残り少なくなったある日の午後、都心に向かう電車に乗り込みドア付近に近い席についた。朝夕の通勤時間帯を避ければゆったりと座れる電車の中、いつもは文庫本の時間だ。ふと向かいの席を見ると、母親に向き合い微笑んでいる幼い女の子に気がついた。マスクをかけたスマホに忙しい乗客がいつもの風景だが、二人ともマスクはしていない。互いに顔を見ながら楽しそう! でも話し声は聞こえてこない? 手話による対話であった。

 兄と同学年の友人だったひろかず君のことを思い出した。兄にくっついて遊んでいた私に、ひろかず君は小型ナイフ(肥後守という名だった)でチャンバラ用の木刀や、釣り竿、竹トンボなどを作ってくれた。小学生がナイフをポケットに持ち、自分で鉛筆を削ることが当たり前だった1960年頃のことだ。ひろかず君は背が高く学校の運動会ではトップを走り、ローマオリンピックの開催された頃に子供たちの間で流行ったオリンピック遊びでは幅跳びや高跳びでも活躍していた。

 ひろかず君の笑顔が印象に残っているが、時に困った表情をすることもあった。今、思えば、彼は耳が不自由だったのだ。身振り手振りであったが、手話はできなかったと思う。彼が中学に入る頃にいなくなって以来、会っていない。遠くの街の聾学校に行ったと聞いた。

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