第十六回 私は誰?個人の場合

塩田先生コラム 第九回
塩田 邦郎 先生のご紹介

東京大学名誉教授

1979年より製薬会社中央研究所、1987年より現在まで東京大学(農学生命科学研究科)、2016年から2020年まで早稲田大学にて研究されてきた。素朴な生物学の影を残した時代から、全生物のゲノム情報を含む生命科学の基礎と産業応用の飛躍の時代になった。本コラムでは大学や企業での経験も交えながら、専門分野のエピジェネティクスを含めた自由な展開をお願いしました。


第十六回 私は誰?個人の場合

 私の知らない“私”がどこかにいて、オリンピックのチケットを手にしているかもしれない。あれだけ厳重だった東京オリンピックのチケット販売、国外では闇の販売サイトで売買されているそうだ。

 ずいぶん昔の話だが、米国ミズーリ州の田舎の路上でハイウェイ・パトロールの警官に運転免許と身分証の提示を求められ、日本で発行された顔写真付きの国際免許証を取り出した。しかし、その警官は日本語と英語併記の国際免許証を見たことがなかったらしく(警官も私も)困ったことを憶えている。国内でも職員証や学生証などの証明証が通じるのはごく限られた範囲で、一歩、外の社会に踏み出ると自分を証明することは簡単ではない。

 12時間ほどで地球の裏側まで出かけられる便利な情報社会の今日、自分を証明することが難しくなってきた。本人確認に用いられる暗証番号を一つとっても、(ネットワーク暗証番号、ユーザー名、パスワード、会員ID、Webパスワード、パスコード、ユーザーID、ログインIDなど)データ管理側により様々な名称が用いられるから、区別するだけでも大変である。入力ミスをすると本人ではないと判定されてしまい慌てることになる。個人情報が厳重に管理されている証だが、戸惑う自分に戸惑っている。

 個人情報保護法が2003年には成立し、2015年にはその適用対象が同窓会などを含むすべての「事業者」に拡大し、個人情報の取り扱いは以前よりは厳しくなった(2017年から全面施行、政府公報オンライン2018年3月23日)。ここで登場する魔法の言葉は“匿名化”だ。個人情報は特定の個人につながる情報(氏名、生年月日、住所など)を削除すれば、匿名化されたことになり、本人同意が無くても第三者に提供できる。匿名化データはすでに企業など第三者に提供・販売されるようになり、その結果、ビッグデータ活用の動きが行政やビジネス界で広まっている。

 ところが、“ビッグデータなどで活用される匿名化データで個人を特定できる”とする英国とベルギーの研究チームによる論文(科学誌ネイチャー・コミュニケーション)が紹介された(朝日新聞朝刊2019/08/11)。それによると、米国勢調査局の公開されたデータの匿名情報から15の属性情報(人種、市民権の状態、学歴など)を用いて統計学や機械学習の計算法を駆使し、99.98%の精度でマサチューセッツ州全住民(700万人)の中から一人を特定することが可能であるというのだ。その気になれば管理者側は個人を特定することが可能なのだ。匿名化されているからといって、個人情報が保護されるとは限らないと覚悟しておこう。

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