第十九回 ゴッホとの出会い

塩田先生コラム 第九回
塩田 邦郎 先生のご紹介

東京大学名誉教授

1979年より製薬会社中央研究所、1987年より現在まで東京大学(農学生命科学研究科)、2016年から2020年まで早稲田大学にて研究されてきた。素朴な生物学の影を残した時代から、全生物のゲノム情報を含む生命科学の基礎と産業応用の飛躍の時代になった。本コラムでは大学や企業での経験も交えながら、専門分野のエピジェネティクスを含めた自由な展開をお願いしました。


第十九回 ゴッホとの出会い

 昨年秋より上野の森美術館で「ゴッホ展」が開催されていたらしい。ゴッホの複製画<ひまわり>に出会った、昔のことを思い出した。羽田から青空のロスアンジェルス、サンアントニオを経由して、雪の降るセントルイス空港に降り立ったのは1977年2月のことだった。

 セントルイス空港には研究室の先輩が自慢のフォルクスワーゲンで出迎えてくれた。先輩自慢のワーゲン・ビートルだったが、空冷車のためヒーターが弱く車内はえらく寒かった。 私は指導教授の計らいで、博士課程に在学しながら米国セントルイスにあるワシントン大学のDr. Walter. G. Wiest教授の生化学研究室で「ステロイド代謝酵素」研究の機会を得た。

 家賃が月160ドルの安いアパートに住むことになった。車も生活に必需品で、中古でも日本車は高かったので、マーキュリーの古い車を200ドルで買った。東京での生活も厳しかったが、月約600ドル位の給料での海外生活は特に心細かった。さらに、安アパートでは引越直後から問題が起きた。前住人が料金を払っていなかったためガス・メーターごと取り外され、暖房機が使えない最初の海外生活のスタートだった。その冬は特に寒く、セントルイスやシカゴで凍死者がでたとのニュースがあったことも覚えている。

 前住人は他にも残していた。鮮やかな黄色のひまわりの複製画<ヒマワリ>が寒々とした部屋の白い壁に掛けてあったのだ。ゴッホの絵は中・高校の教科書にも出てくるほどあまりにも有名だったから、<ヒマワリ>にも特に関心があった訳では無かったのだが、アパートの白壁に残された<ヒマワリ>の明るい強烈な色彩は記憶に残った。

 その頃は日米貿易摩擦でトヨタやニッサン(海外ではダットサン)の車が標的にされ、デトロイトの路上のデモ隊と炎上する日本車がテレビの画面に流れていた。米国ではそれ以前から問題となっていた公害対策として、1970年に廃棄ガス規制のいわゆる“マスキー法”が制定された。ニクソン大統領直属の環境保護庁(Environmental Protection Agency, EPA)が設置されたのもこの年だ。貿易摩擦や環境問題が盛んになる中、ホンダが世界初で初めて基準をクリアしエンジン開発に成功したのは1973年のことだ。燃費が良く環境に配慮した小型エンジンを載せた日本車、米国内を走るホンダ・シビックがオモチャに見えたが、海外の街角で日本車を見かけて誇らしくもあった。

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