東京大学名誉教授
1979年より製薬会社中央研究所、1987年より現在まで東京大学(農学生命科学研究科)、2016年から2020年まで早稲田大学にて研究されてきた。素朴な生物学の影を残した時代から、全生物のゲノム情報を含む生命科学の基礎と産業応用の飛躍の時代になった。本コラムでは大学や企業での経験も交えながら、専門分野のエピジェネティクスを含めた自由な展開をお願いしました。
第六十三回 科研費カケンヒ
暑い日々が続いていたが、ふと空を見上げると天をうろこ雲が高く押し上げている。近くの公園には赤とんぼも、遠慮がちだが姿を見せている。毎年、この時期に気分が高まるのは、遠くから聞こえてくる小中学校の運動会の声援や行進曲のせいばかりではない。科学研究費助成事業(科研費)の申請の時期だからだ。
先のコラム(第12回コラム)に、“自然科学の教科書は、最新データが加わることで概念が否定・修正され、頻繁に改訂される運命にある。ウラをかえせば、自然科学の教科書は真実であるとは限らない。実験データを得るための方法論にも限界があり、実験・観測データが真実であっても解釈がつねに正しいとは限らず、新たなデータが得られるたびに解釈やそれによる概念に変更が迫られるのだ。”と記した。
科研費を申請する際に気を付けたいのは、authenticを集めたのが教科書だから、いくら読んでも未知の課題が見つからなくても不思議はないということだ。また、データがつけ加わらなくても、概念は変遷する。authenticとは、“真性の、本物の、あるいは(既知の事実・経験と合致して)信頼できる”、とある(ランダムハウス英和大辞典、第2版)。
“生物の身体の各部分は、初めから卵あるいは精子に内蔵されているのではなく、後から段階的に分化していく”という後成説(epigenesis あるいは epigenetic theory)は、古くはアリストテレスの海洋生物の観察に始まっている。ところが、“生物の成体の雛形はすでに卵または精子の中に出来上がっている”とする前成説 (preformation theory)が根強く支持され続けた。顕微鏡による観察で有名なオランダのレーウェンフック(Leeuwenhoek, 1632〜1723)の時代であっても、精子の頭部に微小人体ホムンクルス(homunculus)が描かれていた。前成説が覆され、後成説が認められるのは、やっと19世紀になってからのことだ。